下関ふく

訪れたのは某年1月中旬だった。
Takaさんと一杯やりながら河豚が食いたいと言う話になった。
そして、どうせ食うなら本場に行こうと言うことになり「みもすそ川別館」に宿した。
風呂に入り暫くして河豚フルコースの晩食の始まり。
付だし、ふく刺、ふくちり、ふく雑煮、ふく唐揚、ふく雑炊、ふくひれ酒に果物と香の物という内容である。どれも美味である。
当地では「ふぐ」ではなく「ふく」と呼ぶ。


夜の関門大橋

食事も終わり窓外を見ると関門大橋が間近に見えている。
下関から門司へ向かう車のテールランプが右から左へ流れて行く。
本州と九州が指呼の間であることが実感される。

翌日は朝早くに旅館を立ちJRで小郡に向かった。
小郡からは観光バスの旅である。
9時35分発、秋芳洞、青海島、萩を約7時間で巡る行程になっている。


秋芳洞(黄金柱)

先ずは秋芳洞、洞というからトンネル状かと思っていたが中は割と平面的である。
そして蒸し暑い。
かけているメガネが曇ってきて往生する。
鍾乳洞に入る前は冬真っ直中なのに中はチョッとしたサウナ状態なのだ。
鍾乳石が色々な形に姿を変え面白く広がっている。
大きな皿を沢山並べたような「百枚皿」、松茸を巨大にしたように見える「大松茸」、ひときわ大きくそそり立つ「黄金柱」、複雑な形が絡まり合った「厳窟王」等々。
要所要所はライトが当てられてはいるが、その光量が少ないので写真を撮るには苦労する。


秋芳台

バスに戻りカルスト台地の中を走る。
そこかしこに羊の群のようなものが点在する。
鍾乳石が地上に露出し固まったものでそれが羊のように見えるのだ。
何となくユーモラスであるが索漠とした感もある。


青海島

そうこうしている内に青海島に着いた。
バスを降りる。風が冷たい、そしてとても強い。
それだけに眺めは素晴らしい。
この島は何処を切り取っても絶景ポイントである。
日本海に突き出た島であるにも拘わらず冬の日本海の暗いイメージは無い。
海は青くどこまでも見渡せる。
青空に流れる雲も良いアクセントである。
この島で昼飯となり、そして萩に向かった。


松下村塾

萩では定番の「松下村塾」と「松陰神社」を観光する。
松陰神社は割と規模の大きい神社である。そして如何にも神社らしい神社で鳥居の奥に本殿が鎮座ましましている典型的な神社造りの形態である。
その神社の一隅に「松下村塾」がある。これが小さい。テレビなどで毎度の如く紹介されるので小さいという先入観は持っていたが、その先入観以上に小さいのである。今風に言えば精々2Kといったところだろうか。こんな小さな塾舎から日本を動かす人物が多数輩出した。教育というものは場所や環境では無く教える者、学ぶ者の情熱であることをひしひしと感じさせられる。バスの旅はここで終了し我々は萩で一泊した。

武家屋敷

翌朝、ホテルを出て徒歩で武家屋敷に向かう。
今日も寒いが良い天気である。
広いアーケードの商店街を抜けるとタイムスリップしたように武家屋敷の一角にぶつかる。
木戸孝充生誕の家、高杉晋作生誕の家その他の武家屋敷が続く。
どれもが申し合わせたように小さく質素である。
質実剛健そのものの気概を感じると共に何となく楽しくもある。


菊屋家住宅

武家屋敷の通りを散策していると、豪壮な邸宅が目に入って来た。重要文化財の「菊屋家住宅」である。
萩の豪商の邸宅なのだ。武家屋敷の十数倍はあろうかという大邸宅である。現在も一般客に見学させている邸宅の裏手に現当主の家族の方々が住んでいる。そちらも豪邸であり、ちゃんと「菊屋」と表札が出ている。重文の邸宅を見学する。代々の藩主が訪ねて来たと言うだけに立派な造りである。きらびやかさは無いが風雅の趣がそこここに感じられる。余談ではあるが案内のオバチャンの話によると、この重要文化財の保存維持が結構たいへんらしい。国からの補助金が出るには出るがホンの雀の涙でしかない。そんな中にあっても頑張っている方々には頭が下がる。


萩市立明倫小学校

武家屋敷の町並みを出て東萩駅に向かう。
バスを待ったが来ない。流しのタクシーも無い。
仕方なく歩いて駅を目指す。
途中、珍しい木造建ての学校に出会う。
萩市立明倫小学校とある。
藩校「明倫館」の跡地なのだ。
萩という町は何処を歩いても歴史にぶつかる。
それも近世へと繋がる歴史の足跡にである。
それにしても歩き疲れた。


東萩駅からは小郡〜宇部新川〜山口宇部空港と辿り帰途に着いた。
下関で本場のふくを堪能し、秋芳洞で自然の神秘を思い、青海島で青い海と空に感嘆し、萩で歴史の片鱗に触れる旅だった。
一杯飲みながらの話がいつの間にか我々にしては珍しいチョイと真面目な旅になったが、それはそれで時にはいいかも、などと思った。


写真:Taka
文章:Roshi